沿革史

●大庄小学校のあゆみ 創生

明治時代
■4小学校の統合
 明治9年(1876)、学校維持・経費節減のため4小学校を統合し、小学校区第25番区「西新小学校」となる。学費の負担が大きく就学率は低かった。

■成文小学校と改称
 明治11年(1878)、新校舎を建築し、「成文小学校」と校名を変更した。
 明治14年頃からようやく入学児童が増加し、後者を増築し、初等科中等科を置いた。

■成文尋常小学校と改称
 明治18年(1885)、小学校令が改正され、尋常科四年(義務制)、高等科四年とした。本校にも尋常科を置き、校名を「成文尋常小学校」と改めた。学校費は村費ではなく授業料で経営することになった。尋常科は四学級編成であった。

■就学率向上を目指して
 明治32年度(1899)、自己負担であった授業料が廃止された。

■大庄尋常小学校と改称
 明治33年(1900)、「武庫郡村立大庄尋常小学校」と改めた。
明治34年、在校生が400名にふくれあがり、教室が不足したため「半日学校」制で授業を行った。

■高等小学校を併設し改称         
 それまで高等科がなく高等科に進学するものは遠く西宮・尼崎まで通っていた。明治35年、念願の高等小学校を併設し、「武庫郡村立大庄尋常高等小学校」と改めた。

■現在の地に新築移転
 「半日学校」制という不正常な授業と、高等学校伴設の必要性のため、村のほぼ中央の現在の地に校舎を新築移転し、明治35年12月2日開校式を行う。以来、創立記念日として引き継いでいる。また、新校舎移転時に裁縫学校を併設した。

■国定教科書誕生
明治37年、我が国初の国定教科書が誕生し、文部省が著作権を持ち、全国の小学校で同一の教科書を採用することが強制された。「黒表紙教科書」と呼ばれた。
明治37年に修身・国語・書き方・地理・日本歴史を、38年に算術・図画を、44年に理科をそれぞれ発行された。

大正時代
■学校敷地拡張と校舎増築急ピッチ
 就学率の向上にともない、児童の収容が困難となり校地の拡張及び校舎の増築に迫られ、毎年のように工事が行われた。
 大正5年、講堂の建設と共に校地を拡張、旧国道の松並木まで広げられた。

■立派な講堂
 大正5年、阪神間一といわれる堂々とした講堂ができた。(現在南校舎東入り口の南に東西に建てられた。)

■初めての2階建て校舎
 大正12年(1923)、他校に先駆けて2階建て4教室を講堂の東南に建設した。これが大庄小の最初の2階建築である。当時の13,700円、講堂の2倍の巨額を投じた。しかし昭和9年の室戸台風で全壊した。

●大庄小学校のあゆみ 戦争の
昭和初期~第二次世界大戦

■室戸台風で甚大な被害-阪神間を暴風が襲う
 昭和9年(1934)9月21日、大型台風が阪神間を襲った。ちょうど児童たちが登校する午前8時前後には、30メートルをこえる暴風であった。屋根瓦を木の葉のように吹き飛ばし、校庭の20メートルもあるポプラ、役場の横の大きな松が次々と倒されてしまった。
 また武庫川や蓬川の堤防が決壊し校区にも大きな被害をもたらした。

■大庄校も被害
 建築間もなかった木造の2階校舎は全壊。その下敷きで生徒1名を失い、他にも教師・児童が重軽傷者を負う大惨事となった。また登校前に6名の児童が被害にあい亡くなった。講堂はつっかえ棒で倒れずにすんだが、使用不可能となったため昭和9年・10年度の卒業式は屋外で行われた。

■阪神間一のマンモス校
 南部工業地帯に工場が誘致されて住宅も増えてきたため、我が校は大正末期には児童数1000人を越す大規模となった。昭和11年には尋常科45学級、高等科6学級。児童数2457名という阪神問一のマンモス校となる。

■次々と鉄筋3階建校舎を建設
 そのため、このような戦時体制化の苦しい中にあったが、大庄村の教育に対する感心が深い事もあり、昭和8年はじめて校舎の鉄筋化を断行した。その後鉄筋校舎が次々と建てられ、経済的に裕福であった大庄村の誇りとなった。

 

■日本一のマンモス校へ
 昭和13年から17年にかけて、室戸台風の復旧対策と相まって大庄土地区画整理事業が実施され、住宅が増加した。
 そのため、昭和13年には尋常科53学級、高等科8学級、総数3,335名という日本一のマンモス校となったため、4年生以下に二部授業を実施した。また職員数も70人近くに膨れ上がり、西側の職員室とは別に、玄関の東側を低学年用の職員室とした。 児童数の急増により運動場の拡張にせまられ、中馬病院の敷地を買収しほぼ現在の運動場に達した。

■小学校の分離
 昭和14年4月、大庄第二尋常小学校(現在の西小学校)が分離し、校区は阪神電車以南全域で、児童数1,100名が移った。
 昭和16年4月、国民学校令により、第三尋常小学校が大庄第三国民学校(現在の大島小学校)という呼び名になり分離し、校区は阪神国道電車以北全域で、児童数1,000名が移った。

第二次世界大戦が始まる
昭和16年(1941)12月8日、ついに「米英」に対し宣戦を布告し、太平洋戦争に突入した。国内ではほとんどの生活必需品が配給制となった。同年、尼崎にプロペラ製造所が開設され、陸海軍の航空機に取り付けるプロペラの製造が開始された。これらの軍需工場には市内の国民学校の高等科児童の生徒が多数動員された。
 昭和20年3月、ついに尼崎が空襲の標的となった。その後も7回の空襲にさらされ、市街地を中心に当時の13.4%が焼失し、死傷者も1,188人にのぼった。

■国民学校
 昭和16年(1941)、国民学校令が公布され人々に親しまれてきた「小学校」が「国民学校」と改称され、戦時体制へと突入していった。

■先生も戦場へ
 本校の若い教師も戦場に赴く事態が昭和20年まで続き、空襲で郷里に帰る先生も多く、教員不足から、一学級の定員を引き上げたり二部授業をして二学級を一人の先生が担任した。また半数以上が女子教員になった。

■学校が兵舎に
 昭和19年4月、文部省が「学校工場化実施要綱」を通達。本校では、川西航空の材料・機械・器具等が東校舎に、軍隊の医療物資等が北校舎に搬入された。旧給食室では炊事もし、一ヶ中隊が講堂に泊まり訓練した。

■学徒動員
 昭和19年(1944)3月、尼崎市も「尼崎学徒勤労動員要綱」を定め、本校の高等科1・2年は物資の輸送、高射砲陣地の構築等に学徒動員していた。
同年8月、軍需工場への出勤となり、全く授業の出来ない状態であった。教師は国民服にゲートル、子ども達は名札を縫い付けた制服に巻脚はんで、朝の9時から午後4時までの作業であった。

■学童集団疎開
 焼夷弾投下による被害に、校舎を黒く塗ったり、敵機を発見するため武庫川の松並木が伐採されたり松根油を採るために根が掘り起こされたりした。
 昭和19年、本校は「学校集団疎開実施校」に指定され、縁故疎開できない児童約三百名が第一陣として多可郡に出発した。また、昭和20年3月、「学童疎開強化要綱」により、尼崎市が疎開用地域に指定され、第二次疎開として、58名が多可郡、多紀郡へ出発した。

■児童への給食
 昭和17年、特別配給になり、児童に応じて小麦粉を配給、黒パンと交換した。軍隊用のカンパンの配給や自分たちの作った芋やかぼちゃを入れた玄米ご飯など、今から考えるとまずいものだった。

●大庄小学校のあゆみ 戦後から現在
敗戦直後の学校 

■授業再開
 昭和20年(1945)同年9月7日、大庄青年学校で授業が再開されたが、出席は悪かった。
 1学級120名ぐらいを詰め込んでの勉強、教室の窓ガラスは毎日のように盗まれ板を張り付けて寒さをしのいだ。

■食糧増産
 食料が不足したため、同年12月、学校農園を設置し児童生徒によって食糧の増産を図る事を指示された。このため学習どころではなく毎日勤労作業であった。欠食児童も続出したり、芋がゆを食べに帰る児童も多く、授業を午前中で打ち切った事もあった。

戦時色の払拭
教育基本法が定められ、民主主義にもとづいて、真理と平和を求める人間を育てることに重点がおかれ、義務教育は6年から9年にのばされ(六・三制)、男女共学が始まった。給食も始められた。

白表紙の教科書
GHQ検閲の教科書が発行された。これは、新聞用紙を重ねた薄い分冊で、進度により配布されるというお粗末なもので、必要冊数がなく現場は混乱した。


■大庄小学校と改称
 新学制によって「大庄国民学校」がなつかしい「大庄小学校」と改められ、昭和22年(1947)4月に、平和と民主的な教育をめざして新しく生まれかわった。高等科、青年学校は廃止された。
 また尼崎市転入抑制緩和で、人口の増加とともに学童数も急増、5月調査で40学級2,323名で市内一のマンモス校になった。

新しい教育課程
昭和22年 「国語・社会・算数・理科・音楽・図画工作・家庭・体育
及び自由研究」の教科が設定された。
昭和24年 教科書改訂
昭和26年 「自由研究」廃止、「教科外活動」となる。
昭和33年 「道徳」「特別活動(クラブ活動・奉仕活動)」「学校行事 等」を設定。


■中学校の誕生
 六・三制の実施に伴って、西小学校内に大庄中学校ができたが、教室不足のため大庄小を分校として教室を借り、合い住まいとなった。
 しかし昭和23年(1948)4月、大庄中学校が本校を大庄小学校に移転したため、教室が不足、1学級70人近くにしたが足りず4年以下が2部授業になった。昭和24年(1949)4月、中学校の独立校舎が本校農園に竣工。現在の大庄東中学校となった。
 同年4月10日、大庄西中学校も旧市立工業高校に開校。分校を西小学校に置いて授業をしていた。昭和25年(1950)4月、大庄西中学校も独立校舎を持ち、ようやく小学校から中学生が去り、正常授業にもどった。
育友会の誕生

■給食開始
 昭和22年(1947)1月、GHQの援助によって給食が再開された。中庭の納屋を改造した給食室で、2,000人分を超える調理を3人の調理師がしていた。

■ジェーン台風で浸水
 昭和25(1950)年9月3日、ジェーン台風による高潮の被害で国鉄あたりまで一面泥海となった。床上1メートルにもなったらしい。教室は泥だらけで後始末に1ヶ月かかった。

■創立80周年記念
 昭和27年、育友会と学校の協力で、11月1日に記念式典、感謝状贈呈、その他諸種の記念行事を実施した。

■学校の分離
 急速に住宅化され、児童数も増加し、昭和26年(1951)には3,358名、学級数は実に62学級という膨大な数にのぼり、日本屈指の大規模校となった。市当局もやむなく大庄小学校の分離を考えざるを得なくり、成徳小学校、成文小学校に分離された。

学校設備の充実
■特別教室の充実
 知育偏重よりも全人教育が叫ばれ始め、昭和35年(1960)頃から教育委員会は特別教室の増築を計画した。
 昭和36年度、北校舎西端に図工室をはじめ、昭和42年度南校舎に図書室・家庭科室等増築・改造等、児童たちは設備の整った部屋に喜んだ。

■図書室の充実
  昭和42年(1967)、現在の第1図書室が新築された。

■待望の体育館
  昭和45年(1970)建築されることになった。
 昭和46年5月に体育館が完成。1,000人を収容できる体育館に学校は勿論、地区住民の喜びは大きかった。

■創立100周年記念
昭和47年(1972)、創立100周年を迎えた。この年、記念運動会、記念学習発表会、記念式典などの行事が盛大に行われた。

■その後の大庄小
 昭和和48年(1973)、給食調理室が完成した。翌昭和49年(1974)には、カラーテレビが設置され、北校舎教室黒板塗替え工事、北校舎北側窓サッシ改装工事が行われた。 昭和 59年度(1984)には、北校舎大規模改修工事が行われ、昭和60年度(1985)「美しい学校づくり」が開始された。昭和63年度(1986)に、中国鞍山市友好代表団が来校し、歓迎会が行われた。また、 平成2年度(1988)より自然学校が始まった。平成8年度(1992)地区綱引き大会始まり、優勝に輝いた。また、この年、コンピューター工事が行われ、コンピュータ室が設置された。